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古いレビューから[book review]黒いヴェール

過去に書いた感想文を、時々再掲してみる。 基本的には、良い印象のあったもの。あるいは、ツッコミが楽しかったものを抜粋する。

初回は、「黒いヴェール」。(2008年2月20日)

この文章を書いたころの私は、離婚して間もない32歳。0歳の娘(かんこ)との二人暮らしの中で、年に90冊弱の本を読んでいた。別れた家人への恨み言が最後にくっついている。

なお、この本を読むきっかけを与えてくれた吉野朔実は、今年急逝している。

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内容に多く触れています。オチのある作品ではありませんが、新鮮に読みたい方は、以下をご覧にならないようおすすめいたします。

黒いヴェール―写真の父母をわたしは知らない

黒いヴェール―写真の父母をわたしは知らない

内容(「BOOK」データベースより)

日曜日の朝、しずかに死んでいった父と母。そして八歳の私は「ふたり」の記憶を消し去ることで生きつづける…写真家の父がのこした写真を手がかりに、失われた愛の記憶はもどるのか。そして―悲しみは癒されるのか。フランス実力派女優の「真実」の物語。

 

★★★★☆

「本を読む兄、読まぬ兄」で平山 夢明が「最近読んだ」として触れていた作品。

 

本を読む兄、読まぬ兄 [吉野朔実劇場]

本を読む兄、読まぬ兄 [吉野朔実劇場]

 

 

概要を聞いた吉野朔実が「それは心臓を掴まれますね」と答えたのが印象的で、興味を持った。

8歳の少女が、ベッドでゴロゴロしている。家族で外出する予定があって、母親がお風呂に入りなさい、と何度も声を掛けるが、少女はぐずぐずしている内に寝入ってしまう。目を覚ますと家の中がしんとしていて、両親がいるはずの風呂場のドアを開けると、二人は一酸化炭素中毒で死んでいる。少女はそれ以前の記憶を失ってしまい、あの日曜日の静かな死から新たな人生を始める。「あのふたり」のことは、死者としてしか覚えていない。

しかし、写真家である父の遺品のフィルムを現像してみることで、また思春期からの無意識な覚悟によって、彼女は両親を振り返り、また自分自身をも見つめなおすために、本書を執筆し始める……。

まず、文章が実に美しい。長編の散文詩を読み終えたような気分である。

また、彼女の父による写真が、これまた実に、実に美しい。私はモノと光と、その二つによって生じる影の写真を撮ることができる。しかし、私が嫉妬・羨望してやまぬ写真家たち(プロアマ問わず)は、空気を撮影することができるのだ。ごくわずかな100%白から、またわずかな全暗黒の間に広がる、無限にも思えるグレーの帯域を繊細に描写し、現像によって再現できる才能。空気が写る場所を認識し、フレームに入れる力。そこに捕えられる(あるはずのない)空気の質感。筆者の父、リュシアン・ルグラの写真には、それが映し出されている。実に、まことに美しい。(この写真のために、本書には特別な紙が使われているようだ。)

こどもの内に親を失う、とはどういうものなのだろうか。

トラベリング・パンツ」の登場人物の一人、ブリジットも幼い時に母を自殺で失っている。そして、彼女には普段は明るい無鉄砲で押し隠している破滅願望があり、ふとした拍子に安全なラインを踏み越えそうになる。無論ブリジットはフィクションの存在ではあるが、アニー・デュプレーが振り返る思春期の「死への欲求」が、私に彼女を思い出させたのだ。

思春期の人間はだれもみな、ある時期、死にたいというぼんやりとした欲求を感じるものだろう。……うしろを向くことで、大いなる安らぎをあたえてくれる母なる大地の懐に帰る……という誘惑は大きい。普通の場合、それはそこ、曖昧でロマンティックな誘惑で終わる。私の場合にかぎれば、私の母は本当に大地の下にいたし、母の懐と死とは一体化していた。

アニーは半ば事故のような自殺未遂から生還したことで、以降積極的に死に関わろうとはしなくなるものの、依然として死への精神的距離は近いままだ。恐怖心の欠如や、「自分は長生きしない、子孫を残すこともない」という根拠のない思い込みにそれが現れている。

私が親として最も恐れていたのは、こどもを失うことだった。しかし、本書を読んで、その考えは変わった。一番怖いのは、かん子さんがこどもの時に私を失うことだ。いて当然、てゆーかちょっとウザイ?と思っていた母親が、ある日突然何かマヌケな理由で死ぬ。そのことでかん子さんがどんなに傷付くだろうかと思うと、私はかん子さんの目の黒い内には絶対死ねない!と訳の分からない決意をしてしまったくらいである。

本書は、作者によれば書かれた順に構成されている。両親のことを書いてみようと思う……と始まり、それに深く触れないまま、祖父母のこと、家のことなど、記憶にある限りのこども時代を振り返る。ずっと「あのふたり」としか書かずにいた両親を、(皮肉表現としてではなく、)「お父さん、お母さん」と言うようになるのが、「苦しみとともに、あるいは解放感とともに、脈絡もなく書かれた百五十頁以上」を過ぎてからのこと。

 

お父さん、お母さん、あなたたちはあの朝、私をこのうえもなく深い孤独のなかに置いていった。こんな裏切りに遭ったあとでは、だれが信じられる?どうしたら身をまかせることができる?―――あなたたちは私を自分の殻のなかに閉じこめた。

……

お父さん、お母さん、あなたたちは私のなかに大きなおもりを遺した。心のなかのとても重い足かせ。

……

お父さん、お母さん、あなたたちは私にとって見知らぬ人たち、それでもなお、自分がなにものかを知るために、私はあなたたちを必要としていると感じる。

強い怒りと恨み、そして悲しみと飢えと思慕。

彼女の両親が幽霊として身近に漂っていたならば、こういった感情を察して、どんなに自らの不注意を悔やんだことだろう。どれほど生き返り、娘とともに暮らしたいと思ったことだろう。自分のためではなく、娘の幸福のために。

人は私に言うだろう。十年分の記憶喪失、失われた子ども時代の暗い穴をかかえたままでも、ちゃんと生きられる、と。

もちろん、そのとおり―――それは私がしていること。

けれども、首を切られた人だって、自分の頭と一緒に埋葬してもらえる。……この私も五体満足な姿で終わりたい……。

父親の写真が多いため、父について語ることの方が多くなっている。母について最初に主に語る時の章題は「お母さん、あなたが見分けられない」。父が撮影した母の写真を横に、「この女性の中に自分自身を見分けることもない」、「この女性についての思い出はひとつもなく、……まったく見知らぬ人間」と綴っている。しかし、そう書いたことをきっかけとしたように、筆者は母親について考え始める。そして、両親を「ママ。パパ。」と呼び始める。母の写真を見つめ、さらに書き続けることによって、彼女は母親と自分との共通点を見出す。(ここで比較される二枚の写真があるのだが、100ページ以上離れて左右に分かれているため、並べてみるのが実に容易。配慮された構成である。)自分の中に母親の面影を見出した彼女は、最後にようやく書けるのだ。「愛している」と。

一人の女性の苦しみを描いて、深く心に残る作品である。気軽にオススメできるようなものではないが、子供を持つ人には読んでほしい。そして、風呂の排気ガスには充分注意してほしい。他の事故や病気にも気をつけて、問題だらけで平凡な人生を過ごしてほしい。小さなお子さんをお持ちの皆様、死なないように生きましょう。

私は死なないように頑張るけれども、かん子さんにとって「父親」はある意味既に死んでいる。そのことに私自身が責任を感じるのはもちろんのことだが、アニーが自分を置いていった両親に対する怒りを抱いていたように、私も私たちを置いていった前夫を怒っている。まだ怒っているし、これから先かん子さんが「父親の不在」で苦しむようなことがあったら、かん子さんに見えないところでものすごく怒るだろう。

この本を読め!もっと反省しろ!とか言いたいような気もするけど、それで良くなる物事は別にない。それでは、とカムバック宣言されても、ゾンビに戻られたって迷惑だし。黙ってこのまま怒っていよう。